2010年02月12日

「クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識」覚書

ひとまず、借りた本の読書がちょいと進んだので、
途中経過を覚書しておくか〜。

読んでる本。
「クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識」
西尾 維新著

まだ序盤しか読んでないですが、これ読んでて、自分が以前考えていた事を思い出しました。
少年事件や、無差別事件が起きる度に、私は考えていました。

何故、無差別に人を殺すんだろう、と。

得た結論。
無差別に殺す人は、憎しみの対象が漠然としている。
いや、正確に言うと、身近な人に憎しみを向ける事が、なんらかの理由で不可能になったために、
「世間」だとか「社会」だとか、漠然とした大きな物を、代りに憎んでしまう。
そして、社会の構成員である、その辺にいる普通の人を、殺す対象にしてしまう。

自分以外の、社会で生きている人、全てが、憎いのかも知れない。

本来はもっと身近な人を殺したかったはずなのに、
その人を殺したくないがために、全く関係のない人を無差別に殺している。
   ◇
或いは、人との関わりが薄いために、特定の誰かを憎むことが出来ないのかも知れない。
そもそも、相手を憎むには、その人との距離が縮まっている必要がある。
全然関係のない人を、そう簡単には憎めるものではない。

と言う事は、世間を憎む人と言うのは、孤独なのかも知れない。

たとえば、恋人と上手く行かなくて、恋人を憎むと言うのは、非常に分かりやすい。
相手への過度の期待や、依存が大きければ大きいほど、憎しみも深いだろう。

だが、世間を憎む人には、おそらく恋人だとか友達だとか、そういう憎むべき対象がいない。
特定の誰かを憎みたくなるほどに、人と関わった事がないから。

私も、愛と憎しみはコインの裏表だと思う。
相手への関心の表現の仕方が、愛情になったか、憎しみになったかに過ぎない。

(2010年2月10日 宮城県石巻市 南部美沙さん(20)、大森実可子さん(18)の二人が刺殺された事件がありましたね。
少年が、交際していた女性の姉らを殺して、交際していた女性を拉致した事件。
そうまでして拉致することに、何の意味があったのか。
どんなに悪い事をしても、「何があっても殺さず」の精神だけは、持っていて欲しかったですがね。
あの事件には、おそらく「愛」は無かった気がしますね。ただの依存と憎しみがあっただけでは、ないですかね。)

特定の人を憎む人間は、その特定の人物に対して執着がある。
翻って、漠然とした世間などというものを憎む人は、憎むに足る特定の人を得られなかったのだ。
   ◇
たとえば、人生が上手く行かない事に恨みを抱いた人がいるとする。
自分を育てた親を憎んで殺しても良いはずなのに、親を殺さず、関係のない人を殺したりする。

考えられる理由は三つ。

一つは、親を殺したくないから。

二つは、自分が親より「弱い」ために、自分より強い親を殺す事が出来ないから。

もう一つは、そもそも親が殺すに足る人間ではないから。

相手に対する期待があるからこそ、憎しみ、殺意も芽生えるのだと、私は思う。
「ああして欲しい。こうして欲しい」という望みがあるからこそ、それが叶わなかったら、憎しみも芽生えよう。

だがもしも親に対して、あまりに絶望しているなら、おそらく親を殺しはしない。
「この人に訴えても、何の意味もないんだ」と親に対して思うならば、おそらく殺さないと思う。
これはただの直感ですがね。

今日はここまで。
また気が向いたら、この事について考えようかなあ。
タグ:小説
posted by 赤石物語集 at 22:19| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。